もう離さない いつまでも一緒

生きてるのも 生き抜くのも
この先ずっと この思いをしながら
生きなくてはいけないなんて
ここなら、少しは本音をいえるかな?
言ってもいいかな?

無題 ① 知覧にて

2014、12月3日・・・・

私は知覧にいた

会社の旅行で二泊三日の南九州の旅

年間の売り上げによるご褒美旅行だった

実際は、ご褒美?

ではない

休みは削られ ご褒美なのに、旅費は給料引きされ etc.😥

そんな愚痴は 今回は我慢しておこう、、

きりがないから💢


宮崎交通のバスガイドさんが

この旅を更に盛り上げてくれた

始めての南九州は私には思い出が詰まる旅となった


ガイドさんの記憶って中々、残らないと思う


でも それでも 今になっても、覚えているのは、凄く心に残るおもてなしを

してくれた からだと 思う


宮崎、霧島温泉、指宿、鹿児島、桜島

知覧他にもまだまだ


一番は、やはり知覧

特攻平和会館だった


太平洋戦争でお国の為に

空に旅だった若者が両親、家族に

宛てた手紙は 涙せずにはいられなかった


ガラスケースの下にある

達筆な手紙を読むと涙が溢れて止まらなかった

ガラスケースに ポタポタと こぼれた涙を吹きながら会館を巡った


親となり、、、


子供をお国の為だからと

見送らねばならない母親は、どんなに辛かっただろうか

正直、私には 出来ないよ

率直に思った


時代なんだろうけど

戦争の時代に生まれていたら

そうもいってられないんだろう、、


(広島の祖母も、大変だったんだろうな)


遠い田舎から息子に会いに知覧まで来て

明日には 散ってしまうだろう

息子と最後の夜を一緒に与えられ

次の日には日の丸の旗を降りながら

最愛の息子を見送るなんて

・・・・・・・・



当時👦は17才

長男は、もうすぐ20才になろうとしていた時だった


彼らにもいつか、ここに来てもらい様々な事を感じて貰いたいと思った


中々、個人観光で来られる場所ではないから 社員旅行等で機会があったらと


でも正直思ったのは

まだ17才の👦には

感じ取れないかな?

と・・・

長男はわかるかな?

と・・・


帰りのバスの中で

ガイドさんが、特攻隊員として

旅だった若者の手紙を読んでくれた


バスの中では皆が静寂となり真剣に聴いていた

涙を流しながら聴いていた

おじさんも泣いていた

ベテランガイドさんも泣きながら読んでくれた

多分 数多く読んでいるのに、、


明日には 散ってしまう

自分の事を、いつまでも泣かずに、元気で過ごしていってください

という 親に向けての手紙は

何度読んでも

泣かずには読めないと思った




一通り巡って外に出たら

観光客皆が一斉に同じ方向の空を見ていた


はやぶさ2号が

種子島から今にも打ち上げられると🚀


雲さえ邪魔しなければ見えるらしいと聞いたので私達も 皆につられカウントダウンをした


3


2


1


知らない人達とのカウントダウンなんて 始めてで、それだけでも 又思い出となった


残念ながら雲が邪魔して見えなかった

その時聞いたのが 七年後に帰還するよと


当時一緒に行ったスタッフは、

三月には、会社を辞め

ナースの道に行くために学校に行く事が決まっていた


七年後は、国家試験が受かり

とっくに、ナースになっているねと

内緒話をしていた

(そして今年の2月がもうすぐ国家試験)

彼女が辞めることはそのときは余り公には、していなかったので・・・



調べたら、はやぶさ2号は2020年の年末に帰還らしい




当時!!

やっぱり思ったのは

《七年後~?

私は何歳で

息子達はそれぞれ何歳か➰》

だった


まだまだ 彼らにはこれからの未来像があるナー


そう思っていた


霞ヶ浦にも資料館がある


そこなら、いつか、私が連れ行く事が出来る


👦が理解できる時が来たら

と思っていた


もちろん私は戦後生まれだけど

父、祖母が広島なので

戦争については 同級生に比べたら?

だけど 関心はあった


でも

私の範囲なんて所詮 手のひらにもない位で

特攻隊員の若者、そして残された家族の事を知ったのは知覧だった



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